MaMemeMemoⅡへ

MaMemeMemoの筆をここでおき、あらたにMaMemeMemoⅡとして再開。ネットで書くこと、読むこと、想うことの見当に明け暮れた第Ⅰ期から、まさに「読・書・想」からはじめる第Ⅱ期へ。ここで知り合った数多くの方々に感謝いたします。


それではMaMemeMemoⅡでお会いしましょう。月のかげんもよろしいようで。


▼MaMemeMemoⅡ http://www.booklogue.net/MaMemeMemo/

クローズド・ループ

このところ、SNSもブログ同様すっかり若い世代の文化のなかに根付きはじめているが、少し気がかりがある。米国でも日本でもSNSの核になる年齢層が二十代から三十代前半であるということ。


SNSの代表格mixiでは、20〜24:33.8%、25〜29:28.4%、30〜34:17.6%という比率になっている。この合計で実に79.8%。人数にすると200万人に対し159万6千人。ちなみにぼくの世代は1.4%(2.8万人)となっている。この比率ははSNSが社会で認知されるにつれ変わっていくだろうとする予測もあったが、ほとんど変わっていない。

これはこの世代の社会的特徴をあらわしている。どうもこの世代は横へのつながりが広く、縦のつながりが薄い。携帯電話やお笑いやオタクの文化の牽引役になったのは彼らであった。この薄いひろがりが大人になりきることのできない世代をつくった。彼らは、社会のなかではガラスの標本箱のなかで暮らしている。伝統を受けとりきれずに思いつきのことばの同語反復が異常に増加する。そして同語反復空間のなかでSNSでの役作りをする。だがここに作られる役は標本箱のなかでしか役に立たない。そこに彼らのジレンマがある。

彼らの生みだす文化はなかなか面白いのだが、すぐ飽きてしまう刹那的なものが多い。自分では楽しむのだが、人にプレゼントしたくなるものが極めて少ない。特にことば。彼らはことばに対してあまりに無防備である。

だが、これらの動向は彼らが作りだしたものではない。近代化というプロセスのなかで人工的に造られてしまったもので、これからこれらをきちんと消化して本来に還してやる必要がある。


おそらく彼らの突破口は身体感覚にある。まずはアート。アートはSNSのなかだけでは流通しない。現実の社会的な場で流通する。彼らのアートはおそらく戦後はじめて「日本というジレンマ」をもたずに素直に日本をも表現できるアートで、社会的評価も高い。それまで、なかなかにもどかしくもんどりうちながら得ていた表現を、彼らはなんのてらいもなくやすやすと差しだしてしまう。これは注目しておきたい。

もうひとつは結婚。結婚によってもたらされる社会的生活空間が縦のつながりを静かにもたらす。いま、晩婚化が進んでいるのも、この縦のつながりに対するおそれを潜在的に持ってしまっているからなのかも知れない。


そこでいま、彼らをふくむ様々な年齢層が重なりあうプロジェクトを色々と仕掛けているわけだ。

都市月

都市は機械学者である。
都市は映像作家である。
都市は通信装置である。
都市は玩具工場である。
都市は漂流教室である。
都市は色即是色である。


月は観察学者である。
月は活字職人である。
月は図書番人である。
月は即興詩人である。
月は時計工房である。
月は空即是空である。

月島郵便局003(2006.1.10月齢10.38)

年末の約束で中上さんをたずねる。少し早く到着したので佃島住吉神社にお参りする。川縁の神社。本日の話題は2007年問題から外国語教育、伝承まで。様々な自分をそれぞれに交換する。今年はいよいよ悉皆屋の出番が多くなりそう。


写真は工作舎のキャビンからの眺め。

モーツァルト覚書

工作舎キャビン


モーツァルトを聴くと落ち着くのは、感情の起伏がゆるやかであったり、主和音の使い方だけではなく、フレーズのつなぎ方に秘密がある。モーツァルトはフレーズからフレーズに展開するときにいきなり飛び移らず、間のフレーズをはさんで準備する。するとすべてがひと連なりのフレーズとなって流れてくる。

ベートーベンの場合はフレーズからフレーズに移るとき、休符を使う。そこからスイッチがぱっと切り替わるようなドラマティックな緊張が生まれる。まだ統計をとったわけではないが、ベートーベンとモーツァルトの休符の出現頻度にはかなり開きがあるのではないか。

モーツァルトの音楽は、自然の音がそのまま心でなめされて出現する鳥のさえずりに近い。


サウンドスケープのなかの音には目的をもった音とある事の結果として残されてしまう音がある。残されてしまう音も間を埋めていくことで耳障りが小さくなるだろう。山水にはそんな工夫がある。