瑛九とモダニズム

瑛九(1911年〜1960年)は現代のピクチャレスクを駆けぬけた。


油絵から美術評論、写真からフォト・デッサン(マン・レイのフォトグラムの瑛九版)、エスペラントの小説から共産党、大量のリトグラフからエッチングまで。だが、そのどれもがその真中にむかうのではなく、端に端に向かい続けた。瑛九はおよそピクチャレスクの淵を歩き続けた。そんなエッジ感覚が瑛九にある。瑛九にとってモダニズムとはエッジを走り続けることだった。そんなエキセントリックな動向の只中をこそ疾走していた。

なにものにもなりきれない感覚は坂口安吾にも似ている。


瑛九が書いたはじめてのエスペラント語の手紙には

Skribu simple kiel knabo.
肝に銘じながら未だ達せず

とあった。

ピクチャレスクのはじまり

ピクチャレスクは18世紀にはじまるとされるが、おそらくは16世紀ごろにはじまる色や形の構造化・カタログ化の熱情にはじまり、18世紀になって様式として社会に放たれるようになったのだろう。おそらくは「都市化」の動向と無関係ではないはずである。都市がそのままピクチャレスクといっても過言ではない。博覧会、博物学、動物園から機械、テレビ、電話、映画まで。また人工なるものへのあこがれでもあった。これらはピクチャレスクであるとともに都市である。


ここに近代の背骨が隠されている。

世界読書術

ライプニッツはとびきり澄んだアート感覚を持っていたろう。モナドもアルス・コンビナトリアもそんな世界を読書するための構想、読書術であった。

ライプニッツの巧妙はまずモナドを準備するところにある。材料や要素を並べ立てて品を出すのではなく、いきなり品を並べてしまう。そしてひとたびモナドの地平から世界を眺めれば、モナド以外は見えなくなる。モノやコトを構成する最小単位はいまやアトムからスーパーストリングに移りつつあるが、眼の前に現れ、認識しているこの世界はおよそアトムではできていない。この洞窟の中に瑞々しくひろがっている世界は畢竟モナドで出来ている。ここが肝心なのだ。モナドを準備するところから旅をはじめる。もちろんモナド以前はない。

ライプニッツは眼前の世界の瑞々しさを謳い、その予定調和を感じた。予定調和は運命という出来事ではなく、モナドが戯れる場である。アートはこんな事情を思いださせてくれる。

モナドが歌っている。

アートとモナド

アートをモナドとして語ってみると様々なものが見えてくる。メディアがモノ・コトの器なら、アートは意味の器である。アートが結ぶのはなによりも人と人だ。

人は意味を喰らういきものである。

頭蓋都市

近代が礎とした都市はなにも地上ばかりではない。近代的思考が巣食う脳のなかにもひろがっている。そしてそこから私という国家が出自している。私という窮屈な器は到底人の揺り籠になれることはなく、もたらされた緊張が怒りを生む。


都市は山水にかなわない。