サウンドスケープ異聞

先日大学の講義の『音の学校』でサウンド・スケープをとりあげたのだが、どうもマリー・シェーファーの「音」に対する態度に不満が残る。マリー・シェーファーは『世界の調律』のなかで人の声が中心だったルネサンスの時代、楽器が発展したクラシックの時代、電子まで手に入れた現代の時代としだいに可聴域にせまるほどに音の幅をひろげてきた、とする。だが、バリ島のガムランだって人の可聴域を超える「音」を発している。自然にはもともと人の可聴域を超える音があふれている。シェーファーのいうサウンド・スケープがルネサンスからしだいに「音域」をひろげてきている延長線上に必然的にあるとする主張はあまりにダーウィン的だ。むしろ、近代楽器の成立とともにしだいに音域をせばめた人工空間をつくりあげ、その自己解体から豊穣な自然に眼がむけられたとみるべきだろう。シェーファーの『サウンド・エデュケーション』にも同様の視点があふれている。そのまま実行すると近代耳を再構築しかねない。もっと世界の音色に耳を傾けたいものダ。もうひとつのサウンド・スケープが必要だ。