2005-07-01から1ヶ月間の記事一覧

半都市と牧歌都市

おそらく半都市は牧歌都市のフレームをとる。なつかしい子守唄が流れているような、宇宙が透けて見える青い闇が降りてくるような、そんな都市だ。そろそろ子守唄で脳を少し眠らせるべき頃合かも知れない。そう、都市建設だってなによりもこどものためである…

デジタル・モンドリアン

多摩美術大学で、友人の協力を得て四日間にわたって夏期特別講座『スクイーク・ワークショップ』を行う。講座名に「スクイーク」とあるのは、まだまだ百年後のための道具「スクイーク/Squeak」の認知が不足しているから。でも、今回の講座は、スクイークを…

こどもと百年後

このところ百年後のことばかり考えている。いま、インターネットはあまりに未熟な大人たちの持ち物になっていて、「大人が使うもの」「こどもには規制を」という向きがとても強い。だが、そのような制限がされるべきなのは当の大人たちであり、こどもたちは…

桜氏の渦中

桜氏の渦中のただなかに一緒にいると、百年後を考えることが無謀でもなんでもなく思えてくる。このところ考えていることは、インターネットをはじめとした情報・通信の環境がなによりもこどもたちのものである、ということ。まだ出来立ての環境を大人たちが…

半次元

このところ半都市や半自分や半言葉に注目しているが、この発端はデビッド・マーの2.5次元スケッチだった。認識後にピンで留められる世界はめでたく3次元になるが、認識のさなかは2.5次元であるという洞察に注目させられた。考えてみればサイバネティクスの基…

富士山と日本の軸

日本は、富士山に向かう縦の軸とそこを横切る同心円で編まれている。横川はいつも富士山に向かって橋が架けられる。垂直ばかりが軸ではない。日本のジオメトリは、富士山に集中する軸とそこに交わる同心円でできているかも知れないということだ。富士見塚も…

遊びは過剰である

過剰な遊びとは、1と2分の1のこと。デビッド・マーの2と2分の1スケッチとフィードバック。半分のレイヤー。不足であって過剰。あらゆる祭り・祀りの起源でもある。魔物も半分の隙間にひそんでいるのかも知れない。

都市とアート

アートは人にとってそれほど大事なものではない。だが都市に住む人に、あるときは安らぎを与え、あるときは楽しみを与えることができる。それ以上でもそれ以下でもない。こんなアートが都市では額縁のなかから椅子から教会まであふれている。人が都市を捨て…

玩具都市

玩具が都市化している。ロボットやたまごっちなど機械や電子を利用するものはもちろんのこと、人生ゲームから脳力刺激玩具まで。これらはカイヨワやホイジンガが見つめていた「遊び」にはあたらない。玩具よりはテレビに近い。これらの変化は、おそらくは197…

『全然都市』のはじまりはじまり

写真から都市を小説として再構成する試み。構想は去年の暮れから。スタートアップの写真がストックされたのではじまりと相成りまする。安部公房へのオマージュでもある。およそ都市が都市として描かれるのは、エドガー・アラン・ポーあたりから。名前のない…

言葉振り

「適切に判断します」という小泉首相の言葉振りといい、保険満期で「世界一周旅行に行けますね」という言葉を「世界一周旅行もついてくる」と受け取った男の話といい、近頃巷では言葉をめぐるすれ違いが大きな事態をひきおこすことが増えている。言葉と半言…

半言葉

以前から気になっていたのだが、ブログに表れる言葉は、日記帳の言葉ともメールの言葉とも本の言葉とも異なる。自分であって自分でない、半自分の言葉であるというわけだ。現在の言葉の原型は、おそらくルネサンス以後の都市化によって流通した書物に起源が…

半都市のすすめ

ただ都市を捨てたところではじまらない。捨ててしまえば、それは償うことのできない廃棄物になる。まずは都市に穴を穿ち、速度をスローダウンして半分の都市をつくる。そんな半都市にこそ、人がこれから暮らしていく都市の姿があるだろう。グローバル経済が…

近代の終わり

そろそろ近代が終わりかけているのではないか、そんな気がする。おそらくは、人がもたらしたテロリズムの光景に脳が反応しているのではないかと思っている。癒しがブームになったり、そのままの声の歌姫の歌がヒットしたり、スローライフが話題となったりす…

未来都市のイメージ

SFや映画で見られる未来都市のイメージがあまりに酷似してはいないか。林立する高層建築や空飛ぶ車、ワープする宇宙船に超能力。これらのイメージはルネサンスにいまの都市をイメージしたように、いまの都市の延長線上にあるイメージである。これらのイメー…

都市は消費する

都市はあまりに過剰である。喧騒からショーウインドウや街灯の光から冷暖房まであまりに過剰である。時間ですら秒針で動いているような気がする。こんな時間の過剰をエンデは『モモ』に書きこんだ。なぜこのような都市が誕生したのかが気がかりだった。住居…

ホモ・サピエンスの自覚

ホモ・サピエンスの自覚はいったいいつにはじまるのか。おそらくルネサンスのころは半自覚である。半分自然・半分人間のいわば半神半人だった。だが蒸気機関車が走ると、瞬く間にホモ・サピエンスの自覚がひろまる。「機械」はこの世のものではなかった。衣…

エディトリアル・サーカス

雑誌の醍醐味は、なによりもその編集にある。あるコンセプト、あるテーマのなかの百花繚乱の光景にこそワクワクするものだ。残念ながらインターネットのなかにはそんな雑誌は登場していない。でもそんなエディトリアル・サーカスに、これからのインターネッ…

メールマガジンからブログへ

メールマガジンは誰もが発行できるメディアである。だがあくまでもテキスト主体でシーケンシャルに読むしかなかった。雑誌の同時性の面白さを伝えるのは困難である。おそらく現在は一時期ほど誰もがメールマガジンをやってみようとは思わない。かつては個人…

ブログ検索エンジン

いま「ブログ検索エンジン」の開発が水面下で熾烈な競争を繰り広げている。なにしろブログの更新頻度が高いのでいままでの検索エンジンでは一番ホットなブログの情報をとることができない。ブログ全体の動向を常にリアルタイムで把握しようとすると少なくと…

多様をめぐる

雑誌の魅力のひとつは様々なコンテンツである。様々な人が様々なテーマについて書き、それが雑誌という場所で編集され「かたち」を与えられて放出される。様々なコンテンツを行き交えることが面白い。だがブログの場合は別のテーマを書きたくなると同じブロ…

電子掲示板と雑誌のあいだ

電子掲示板は誰もが対等な立場で書きこみ閲覧する。もちろん掲示板の管理者はいるのだが、編集性は発揮されない。ブログの場合は方向性があり、書きこむ人とそれを読んでコメントをつける人に分かれる。だから編集性が生まれ、一貫した意図を伝えることがで…

コミュニケーション

雑誌と異なるのは、まず誰もが記事を書けること。雑誌のように「売りモノになる記事」という前提条件はない。これは個人の日記に近い。もうひとつの特徴は、リアルタイムにコメント、トラックバックがやって来るということ。雑誌の場合はかつては葉書がそん…

スレッド・メディア

ブログは時計仕掛けのスレッド・メディアである。もちろんリンクを埋めこんだりすることはできるが、基本は「日記」にある。あるテーマに寄り添って書き連ねていくと「記事」になるし、自分に起きたことを連ねていけば「日記」になる。だが、様々なコンテン…

『コトノハの国』オープン

この半年ほど、声のことを考えていた。たしかにネットには写真も音楽も映像もあふれていてまるでテレビのようなのだが、いつも物足りなさを感じてしまう。百花繚乱にも見えるウェブが、どこか刹那的で絵空事の世界のように感じてしまう。もちろんウェブを製…