2005-08-01から1ヶ月間の記事一覧

YES PROJECT

自民党懇談会の"YES PROJECT"がいただけない。もう一度ウッドストックが必要か。

project m

桜氏と"project m"の打ち合わせ。

自民党とブロガー

「メルマガおよびブログ作者と自民党幹部との懇談会」の話題がブログをかけめぐっている。無党派・若年層を取りこもうという意図はあまりに丸見えなのだが、どうかブログを、若い人がいま育てている文化・風土を甘くみないで欲しい。まず自らのサイトをブロ…

蝉しぐれ

やがて死ぬけしきは見えず蝉の声(芭蕉)

表現と未来

未来はいつも表現のなかにある。表現はいつも一秒先へ投企する。

メディアは自己反復する

メディアは複製による自己反復に本分がある。どこを切っても同じ貌を見せる都市の要。脳そのものの構造も自己反復であるのだろう。

メディアは都市の皮膚である

ます、紙があった。知らない者同士が同じコンテキストに触れた。おそらくは都市化の戦略の重要な一事であった。さらにリトグラフ、活字、新聞とテレビ。そしてインターネット。

一回性の想像力と同時性の想像力

一回性の想像力と同時性の想像力は異なる。ブログは同時性の想像力にささえられている。これは「共同幻想」ではない。

アートとデザイン

よく「アートは個に向けての表現、デザインは社会に向けての表現」と言われるが、複製技術の観点から見直してみてもよい。デザインにひそむ都市性、デザインにひそむ同時性がもっと議論されてもよい。

複製技術と都市

ベンヤミンの『複製技術時代の芸術』はなかなかの碧眼であるが、ふたつの不満がある。ひとつは「都市」という視点が抜け落ちていること、ふたつめは一回性にこそアウラがひそむのではなく、都市においては一回性のアウラから同時性のアウラへの展出が見られ…

都市論と国家論

都市論は投げだされるもの。国家論はしまわれるもの。

サーバーサイド・フォント

サーバーサイドのフォントシステムが欲しい。現行のウェブのシステムではクライアント側のフォントが前提なので、書き手の意図に沿った表示ができない。これでは表現にならない。

『書物都市 CUE』プレ・オープン

『書物都市 CUE』をプレ・オープン。ブログをまとめあげ、そこに「編集」をさしはさむことで新たなるネット・メディアへ。雑誌とテレビのあいだ。

小説を書くということ

小説を書くということは、人のなかのフィクシオンに気づく行為である。

桜氏の声が聞こえる

久方振りに電話より桜氏の声。一時薬のショック症状で昏睡にまで陥っていたが、ベッドから電話をかけられるほどに回復した。これで病魔から解放されつつあるというわけではないが、桜氏の声が生きているあかしのように尊かった。

全然都市インデックス

はじめから読むのが面倒という声にこたえて、『全然都市』を作成。はじめから読みたい人はこちらからどうぞ。こちらでは断片が投稿順に並んでいます。

Appleというブランド

Macが登場したときから、Appleはマニアのためのメーカーからブランドへと成長する。PCに対する先導的コンセプト、エンジニアよりクリエイティブたちへの支援で一時代を築く。だがWindows95の登場を境にこの状況が壊れはじめる。ユーザ・インターフェースをは…

伊勢神宮式年遷宮

二十年に一度の式年遷宮が近づいている。伊勢神宮はさすがになかなかに謎めいたトポスで、内宮と外宮の関係、埋めこまれた陰陽思想、羽衣伝説との関係、謎の屋形文錦と刺車文錦など興味はつきない。半分遊びであるが、自分で以前作ったお気に入りのシンボル…

ブログ小説

ブログで小説を書き始めて今日で第19片。ブログだとずっとスクロールして読むのがつらいので、新聞小説のような短い断片を重ねるようになる。またディスプレイを考えると「欝」のような画数の多い文字は自然に避けてしまう。またアクセス解析で何人ぐらいが…

機械虫

男がなぜカブトムシに夢中になるかって? 虫は機械だからさ。男は機械を前にするともう居ても立ってもいられなくなるからね。安部公房なんて「ユープケッチャ」という架空の虫さえ考えていたくらいさ。そうですね、ファーブル先生?

網膜テレビ

「ゲーム脳」という見立てはどうかと思うが、網膜の映像とテレビ/モニタの映像の接近は気になる。この境は自分の境でもあるだけに、自己消失が不用意に起こりうる。だが脳にとってはどちらも脳の栄養であるばかりである。自分の境をまぎらし世界との一体感…

フィクシオン

地球の片隅の小さな出来事など、儚きフィクシオンにすぎない。でも、なにものにもかえがたい尊いフィクシオンである。われわれはそんな一片をつまむために地球にやってきたところだ。

存在学とは世界のデザインである

経済産業省が7月に『新日本様式』の戦略を発表した。昨日もこの件にもかかわるミーティングがあったのだが、どうも「デザイン」の指し示すものがとても狭い。グラフィックやモノに形を与えるのがデザインで、そんなデザインでもうモノが売れる時代なんて終わ…

地球の声

朝方、オルカ・ライブでオルカのエコロケーションを聴く。今日の声はなんだか求愛のような切々とした声。声と一言で言っても実に様々であるが、「声」を出すことにそれだけの意味がある。そういえばPaul Winter/Paul Halleyは鯨とセッション("WHALES ALIVE"…

桜氏の沈黙

今日は終日連絡つかず。

桜氏と四十五分のこども

桜氏より電話。薬が効いているらしく少し長話。一番の話題はこどものための社会。どのようにしてインターネットをこどもに移譲するか、こどものコミュニケーションから何を学ぶか、こどもの時間、こども新聞など話題はつきず四十五分。彼にとってはいま四十…

桜氏の1パーセント

おそらく、ぼくは桜氏の1パーセントも知らないのだろうが、その1パーセントがとてもかけがえがない。

読みかけの国、書きかけの国

これは桜氏とはじめようとしているプロジェクトのコピー。こどもたちのために世界という一冊の書物を読み、書く場をつくろうというもの。書物というものはいつだって読みかけで、書きかけなのである。この「かけ」が未来へのプロセスをつくる。このノートで…

胸騒ぎ

昨日はずっと胸騒ぎ。寝付けなかったので恩田陸の『蒲公英草紙』を読む。植物から洩れてくる光のような風が全編に散りばめられる。言葉より映像が立っている。読み終わるというよりはこころのスクリーンのスイッチを切る感じ。 今は世界という雑踏の中で、日…

脳の食べ物

都市が記号で溢れているのは、なによりも都市が脳のための食卓だからである。人は脳に食べ物を給仕する。都市には道がない。およそ記号のための通路があるばかりだ。人口密度も高いが、人工密度も高い。一方人と人とのコミュニケーション密度は滅法低い。都…