2005-03-01から1ヶ月間の記事一覧

ゼネティクス宣言の序

三年ほど前から準備してきた。ソフトハウスでも学校でも出版社でもシンクタンクでもどこか物足りなく、物足りなさに遊びながら少しづつ組み立ててきた。このなかで実に多くの人や事物とめぐりあってきた。この踊るようなネットワークはいまも続いている。ゼ…

ブログの痛快

ブログのひとつの痛快は「頁」にある。ウェブは一頁一頁がフリー・スタイルで、頁と頁のあいだには何の脈絡もない。同一ディレクトリの別ファイルであろうが、地球の裏側のサーバーにあるファイルだろうが、いったん頁の外に出てしまえばそれはまったく同じ。…

持つ、見る

およそ分類には、「持つための分類」と「見るための分類」がある。図書館の十進分類は「持つための分類」、ポータル・サイトのディレクトリは「見るための分類」である。ポータル・サイトで流行を追うのは容易いが、図書館では難しい。 だが、この「持つ」「…

表現を磨く

あまりに表現が不足している。ブログが流行するとこの傾向はもっと強められる。誰もが「表現しているつもり」になってしまう。まず、ことばを磨くこと。話したり書いたりする言葉よりも、を組み立てていることばを磨くこと。すると「観」が生れる。表現はこ…

表現とことば

ことばは、人を世界につなぎとめる。こころのなかにことばでを組み立て、世界に向かう。はそれぞれの世界へのリフレクタ―である。直接世界を見ることは出来ない。感覚やメッセージからをこねて、を観る。世界においては人は絶対孤独の物質にすぎない。そして…

表現する自分

表現にはいつも自分がつきまとう。近代に入ってからというもの、およそ「人文系」の表現がつまらない。世界を見て、感じて、考えはじめたとたんに停止する。哲学も神秘主義もトランスパーソナルもつまらない。ある特定の薄いイメージに囲われてしまって表現…

生きた構造主義

少しばかり流行している新ネットワーク理論は、ネットワークの工学的解析だけでなく、こころの様態を考えるきっかけになる。「人文」もこんな場面から頑張って欲しい。

こころの構造

「こころ」は、おそらくは構造をもった生きたネットワークシステムにつきる。世界の推移は、認識されるエピソードがモザイクとなってに嵌められる。認識は、辞書ではなく、体験あるいは体験的感覚が結びついた「情報」の文脈である。

言語のゆらめき

長岡技術科学大学の三上先生をたずねて「言語天文台プロジェクト」についての話をうかがう。長岡は雪。先日の地震の被害も大学はごく小さかったとのこと。 研究室のフロアのエレベータ・ホールにタイプライター、キーボード、コーランなどが展示されている。…

表現、ありき

学習院大学の遠藤薫先生を訪ねる。社会そのものの軸が少し揺らぎつつあるためか、最近は社会学と人類学で面白い人材に巡りあう。 今日話題にあがったのだが、コミュニケーションのなかの表現に少し注目してみたらどうか。コミュニケーションという言葉がうま…

赤坂篇

午後はネオテニーの伊藤穣一さんを訪ね、デジタル・アーカイブ/ウェブ・アーカイブ/ブログ/インターネットを飛び交う情報/著作権/プライバシー/オープンソース/パブリック・ドメインなどについて一息に話を聞く。一時間あまりの短い時間ではあったが…

岐阜篇

本日、午前中岐阜女子大学の後藤副学長をたずね、デジタル・アーカイブ/ウェブ・アーカイブのプロジェクトについて色々と話を伺う。後藤先生は、岐阜のデジタル・アーカイブをはじめ、日本のアーカイブを推進してきた方。今日の彼の言葉で印象的だったのは…