表現、ありき

学習院大学遠藤薫先生を訪ねる。社会そのものの軸が少し揺らぎつつあるためか、最近は社会学と人類学で面白い人材に巡りあう。


今日話題にあがったのだが、コミュニケーションのなかの表現に少し注目してみたらどうか。コミュニケーションという言葉がうまくないせいか、誰もが「コミュニケーション」というと「メッセージ」を思い浮かべる。そして「メッセージが伝わるかどうか」を考える。だが、実は「言葉」と「メッセージ」はかけ離れている。言葉を聞いてそれが何という言葉であるかを了解してもメッセージが伝わったことにはならない。そこには表現があり、表現の解釈がある。


言葉はひとつの階層で構築されているのではない。幾重もの階層が織り重ねられながら言葉の空間そのものをつくりだし、空間のなかを人が自在に動き回れるようにする。そこに「表現」がある。


ソーシャル・ネットワークでは、プロフィールにどこか「自分らしさ」を出したくなり、身分証明書の写真とは一味も二味もちがった写真や絵をしつらえる。何気ないことなのだけれど、そこに表現があり、表現をやりとりすることによるコミュニケーションがはじまっている。


今日話題にあがった平安時代の歌のやりとりも、そんな表現をたっぷりふくんでいたはずである。「コミュニケーション」という言葉なぞついぞ知らなかったはずであるが、いまにもまして豊穣なコミュニケーションが成立している。


ソーシャル・ネットワークで起きつつあることも、どこか平安時代に似ている。インターネットという空間、デジタルという空間は、反語的に聞こえるかも知れないが「表現」を身近な場所に取り戻すきっかけになるかも知れない。


こどもの表現が貧弱になったばかりではない。なによりもおとなたちの表現が貧弱になってしまった。だから恋ひとつするにもテレビがなくては出来なくなる。


ピカソやクレーの絵がまるで「こどもの絵」のように見えるのも偶然ではない。かれらはついにその表現にまで辿り着いたのである。