『コトノハの国』オープン

この半年ほど、声のことを考えていた。

たしかにネットには写真も音楽も映像もあふれていてまるでテレビのようなのだが、いつも物足りなさを感じてしまう。百花繚乱にも見えるウェブが、どこか刹那的で絵空事の世界のように感じてしまう。もちろんウェブを製作している人もたしかにそこにいて、その結果としてウェブがそこにあるのも理解できるのだが、どうも実感がもてない。それを考えていた。

思い至ったのは「声」であった。テレビもラジオもまずなによりも「声」を伝えていた。「声」のもたらす臨場感ゆえに、焼け野原のラジオから流れる声に励まされたり、テレビで伝えられるベルリンの壁の現場に心を釘付けにされたりした。ネットがこれだけ社会化してもはや生活から取り外せないほどのものになっている一方で、まだテレビやラジオでしか伝えられないことがあまりに多い。

そう、ネットに不足しているのは「声」である。その人そのものの消息を伝える「声」である。いまはむしろ自分を消しゴムで消すようにウェブを飾り立てているといってもよいかも知れない。ウェブがどこか信用できなく、刹那的に感じてしまうのも、そんなところに由来するのかも知れない。

一方では、携帯音楽プレーヤーも普及し、聞くだけでなく、いつどこでもその場の「音」を録れる環境も揃ってきている。環境音や音楽のためでなく、声のためにこそ、この環境を利用してみたい。

『コトノハの国』は声による書である。筆のかわりにみずからの声で一筆書き上げる。このとき大事なのは「その場」である。カフェから車中から雨のなかまで、その場の音と一緒に声で一筆仕上げる。すると、自分の消息がそこにとどめられるはずだ。こんな臨場感、実感をネットのなかにひろげていきたい。

録音機がなかった時代には、自分がいま聞いている自分の声と、人が聞いている自分の声の色が違っているとは誰も思わなかっただろう。これは録音機の限界ではなく、その場で自分のなかで響いている声と、口から出ている声がもともと別物であるところから生まれる存在の溝である。

どうも録音機以降、この溝を人は埋められないでいる。会議で記録される自分の声に赤面したり、外の自分と内の自分が妙なところで分離してしまったりする。「そんなはずではない」「本当の自分ではない」という独特の捩れた感情が、こんなところから膨らんでしまったりもする。

電話も、声を伝えるからこそ社会になくてはならぬコミュニケーションの道具となり、遠く離れた人と人を結びつけてきた。そろそろネットもそんなステージに足を踏み入れてよい。そして自分の消息を伝えられるメディアに向かうとよい。ネットのなかに心地よい風を吹かせてみたい。

『コトノハの国』は、そんな消息からはじまりまする。正直なところ、自分の声をネットに刻むには覚悟が必要だった。なんでもない小さな覚悟ではあるが、それが覚悟であるには変わりがない。それほどまでに「声」を思わず隠してしまう癖を身につけてしまっていたということである。いざ自分の「声」をのせてしまうと、自分の分身がネットのなかでコピーされ、分裂してひろまっていく奇妙な感覚がある。だが、いいようのない臨場感もそこにある。

そんな消息から『コトノハの国』をここにオープンしたいと思う。新しいネットの世界をお愉しみください。

▼コトノハの国 http://kotonohanokuni.seesaa.net/