計算機から文化器


そろそろ「計算機」をやめたらどうかと思う。計算機はもはやあたりまえで、とうに十分に役割を果たしている。いまは計算はもちろんであるが、コミュニケーションや映画でもなくてはならぬモノとなっている。まだまだ発展途上ではあると思うけれど、社会のなかに、歴史のなかに入りこみはじめている。


そこで「文化器」とでも呼んだらどうかと思う。もちろん、『夏への扉』(ハインライン、福島正美訳)の名訳「文化女中器」が頭にありますが。