方言と音環境


これは昨日仕事で京都に行ったときに感じたこと。


むかしから「なぜ方言があるのか」ずっと気になっていた。もちろんある母型になる言葉があって、それがそれぞれの地域へ拡散・分節化されていって地域にあったカタチに姿を変容されていくのはわかるのだけれど、なぜ京都ではあのイントネーションになり、なぜ山形ではあのイントネーションになり、なぜ東京ではあのイントネーションになるのかが不思議だった。


昨日、帰りの新幹線を待つ間、京都駅前の地下街のとある小料理屋でゆば刺をつまんでいたとき、ふいに買い物帰りの団体さんが入ってきた。すでに盛り上がっているらしく、途端に店のなかが喧騒につつまれるのだが、不思議と「ウルサイ」とは感じなかった。それどころか、同時に喋るひとりひとりの言葉が同時に聞き取れてしまう。これにはギクリとした。


言語は大別すると、ストレス・アクセント(強弱)系の言語とピッチ・アクセント(抑揚)系の言語に分かれる。ストレス・アクセント系の言語の発生元をたどっていくと大方砂漠地帯へ、ピッチ・アクセント系の言語をたどっていくと大方森林地帯へいきつく。おそらくは人がメッセージを誰かに伝える場合、自分の鼓動が聞こえるほどに静かな空間と様々な音・声が充満する喧騒の空間では「音・声」でメッセージを伝えるための戦略が異なる。それが「ストレス」と「ピッチ」になって表れる。英語は代表的なストレス・アクセント系の言語、日本語は代表的なピッチ・アクセント系の言語である。ガイジンが日本語を話すときに「奇妙」に聞こえてしまうのも、ストレス・アクセントで日本語が話されるからである。ロボットらしさをつくるときもストレス・アクセントを意識的に使う。


日本は音の空間としても実に多様な国である。密林のような場所もあれば砂漠のような場所もある。地球の音標本のような空間が連綿と連なっている。おそらくはそのあたりに日本語の方言のあのイントネーションの秘密があるのだろう。それぞれの音の空間のなかでそこに合ったイントネーションが育てられているはずである。


だから方言を大事にしたい。それぞれの空間に密着した知恵の結晶とも言うべき方言を一掃してしまえば、人と人のコミュニケーションにきっと不都合が生まれる。


マリー・シェーファーらによる「サウンド・スケープ」指向がひろがりを見せているが、画一化された仮想の音空間を構築するのではなく、その場所らしさを発揮する音空間の構築手法を体系化したいものだ。人のなかで衰えているのは音を聞く「耳」の機能だけでなく、音を空間としてとらえる耳と感性である。方言だってサウンド・スケープのなかで捉えてほしいものだ。