心の在処


およそ昨年は「心の在処」について考えてきた。そのなかで心に留めたことをいくつか書き記しておくことにする。

心はおよそ一万年をかけて形成されてきた。

ぼくたちは白紙で生まれてきても、白紙から学んでいるわけではない。どんな食べ物を育て食べればよいかなど、ショートカットしてまとめられた知識を学ぶ。だから一万年の出来事すら数時間で学ぶことができる。心は一万年のあいだ途切れていない。文化という器を用意して、身体から身体へ、人から人へ、時代から時代へ心を伝えながら育てることができる仕組みになっている。ドーキンスなら「ミーム」というところだが、彼の「ミーム」の概念よりもっと深いものかも知れない。


心の仕組みはもっぱらAIや認知工学で扱われてきた。でも残念なことにそこで対象とする「心」は身体の内側にある「個」の「心」であり、一万年の心ではない。そこで「文化」の視点が抜け落ち、心臓のような「心」の機能をメカニズムとして理解しようとする。…残念!

コミュニケーションのはじまりは共在感覚にある。

これは京都大学の木村大治さんの研究がヒントになった。木村さんはピグミーのバカ族やザイールのボンガンド族の「ボナンゴ」と呼ばれる投擲的発話について研究し、そこに「共在感覚」があることを見抜いた。


ボナンゴの様子は、下記の木村さんのウェブで見ることができる。


 ▼共在感覚ホームページ
  http://jambo.africa.kyoto-u.ac.jp/~kimura/co_presence/


一見何の脈絡もなく勝手に発話する様が見られるが、実はここに「共在感覚」を獲得するもっともプリミティブな行動が見られる。まず、ある空間で発話すること、そして発話行為そのものがそこで受け入れられること。これによって「共在感覚」がはじまる。そして発話が投げられた空間が家族であったり、親しい友人たちであったり、村であったりすることでそれぞれと自分がつながる。


これが少し高度になるとお互いの発話がかみ合うようになり、共振するようにメッセージがやりとりされるようになる。飲み会などの「その場の一体感覚」もこの「共在感覚」からはじまっている。ぼくたちもボンガンド族も同じ。


さらに高度になるとそこに「声の高さ」が加わる。するとピグミーに見られるポリフォニーが生まれる。異なる高さの音を同時に発生することで「ひとつの音」を「共有」する。「共在」と「共有」はいつも裏表の関係にある。ちなみに、おそらくは4千年前とも5千年前とも言われるピグミーのポリフォニーギリシャに伝わり、ピタゴラスらによって体系化されて「うた」が生まれ、それが近代になって「音楽」となるという歴史が隠されている。


人が雑踏する駅のホームで絶対孤独の人が「奇声」を発しながら歩くのも、韓国で「泣き女」たちが天をもやぶる声で鳴くのも、赤ん坊が誰もいないところで喋りつづけるのも、みなこの投擲的発話に由来しているのだろう。


コミュニケーションが成立するはじめにはまず「共在感覚」があり、それが根拠となって「空間・場」を「共有」し、その空間の範囲が家族・友達・コミュニティ・社会などの関係となる。社会を実感できるのも、この「共在感覚」にはじまるというわけだ。


するとコミュニケーションの基礎となる言葉の誕生にも「共在感覚」が深くかかわっていることが予想できる。言葉は「うた」のように細かなイントネーションやアクセントを持っている。これらは「共在感覚」を発揮しながらメッセージをやりとりするための基本の機構である。


また「共在感覚」は、おそらくは人のなかの様々な感覚(視覚、聴覚、触覚…)をひとつにまとめあげ一体の感覚、統一された感覚を生み出すことに一役かっている。バラバラに存在する感覚に「同時性」をもたらしまとめあげるのが「共在感覚」というわけだ。この点はいままで見過ごされてきた。ここにも心の在処の問題が隠れている。


もうひとつ、心の在処に忘れてはならないのが「輪郭線」である。

世界に輪郭線はない。心が輪郭線を生む。

世界には輪郭線は存在しない。ためしに目の前にあるカップやディスプレイや椅子の輪郭線をなぞってみるといい。そう、どこにも輪郭線そのものは存在しない。表面をなぞるばかりである。


レオナルド・ダ・ヴィンチモナリザの輪郭線をスフマートという技法で消去した。幾重にも筆を塗りこめながらモナリザと背景、事物と事物の境をすべて消去した。するとモナリザは写真のようにリアルに浮かび上がってくる。実はモナリザが微笑みかけているように「見える」のは、モナリザの絵を前にしたとき、モナリザを認識するときにぼくたちの心のなかに輪郭線を誕生させ、その輪郭線のゆらめきが微笑みになっている。


一方、輪郭線で描かれた絵もある。たとえば鳥羽僧正の「鳥獣戯画」など。この絵はけして写実的ではないが、実に豊かな動きを感じさせる。輪郭線をぼくたちが追っていくうちに、ぼくたちの心のなかに豊かな動きが生まれる。だからこそ、漫画はなによりも輪郭線にはじまらなければならなかった。日本は輪郭線の宝庫である。


実は、この「輪郭線」は心のなかの「事物」の認識に深くかかわっている。輪郭線を生むことで空間から対象を切り出し、対象として認識される。マービン・ミンスキーはこの心のなかにゆらめく輪郭線をフレームと呼んだものだった。


さてこんな按配で昨年は心の在処をめぐる旅をしていた。

今年はどこへ行こうやら。