書きこむ

世界を理解するということは、そのまま内に向けて世界を書きこむということでもある。ここに表現のはじまりがあるが、これがなかなか気づかない。受信だけではまだ世界は見えない。受信したカケラに触れ、それについて再構成すると世界がたちあらわれる。

テレビやインターネット文化の拡大にともなって、圧倒的な受信文化が生まれているのかも知れない。あまりにも多すぎるカケラに触れることなく右から左に流してしまう。すると「書きこみ」が鈍ってしまう。表現のスペクトルとしても非常に偏った向きになってしまう。すると、風のささやきが聞き取れなくなったり、夕日が落ちる一瞬の色を見逃したり、雨の匂いを忘れたりする。

感覚をめぐる問題はセンサーだけでは回復できない。内に向けて書く意識にこそ向かいたい。どうも、日本という場所はこのところ表現がしぼんでいる。新聞を見ていても、テレビを見ていても、国会を見ていても、打ち合わせをしていても、どこかこの一番小さな表現が置き忘れられている気がしてならない。