月とダンディズム

つまるところ、ダンディズムとは抽象に遊ぶことである。

昼の光、昼の熱は太陽の仕業である。だが夜の闇は月の仕業ではない。だから月は抽象への入り口として古来より好まれてきた。抽象は感覚にとって、認識・理解にとって、表現にとってはじめの一歩だが、この抽象がこのところうまくはたらかなくなっている。ネクタイにも歯車にも、月の思想がこめられていたものだった。

1920年代は抽象の実験場だった。パリのカフェも抽象の巣窟となり、抽象に人が酔いしれた。だが抽象を摑まえようとすると抽象は消えてしまう。手のなかには「機能美」が残り、それが近代を建築した。

そろそろ上等のダンディズムに遊ぶころあいではありますまいか。