モンドリアン・ゲーム

モンドリアンが抽象に走った後の絵は、見ていて素直に心に刻まれる。おそらくはモンドリアンは内なる表現に気づき、内なる表現にもっとも近いかたちを絵筆に託した。林檎の木を描いていても、心のなかでは抽象が踊っている自分に気づいた。およそモンドリアンの抽象には人を傷つけるような刺々しさが見当たらない。感情の発露として絵の具がおかれるのではなく、心に生起するかたちをあらわそうと絵の具をおいていく。内なる表現の絵の具は、おそらく抽象度がたかく、それを利用して様々な具体的世界へのとっかかりをつくることが出来る。

モンドリアンの「ブロードウェイ・ブギウギ」を見ていると、まるで都市の喧騒が聞こえてくる。モンドリアンは人の生活の抽象を都市に見ていた。自然に対する物質や機械でなく、抽象をこそ見ていた。

クレーの線にも同じ抽象が宿っている。クレーはこどもの絵を集めていた。こどもの絵を、未熟ではなく抽象がそのままあらわれる絵として見ていたのだろう。社会的規範が身につく前のこどもは、内なる表現がそのまま外にあらわれる。こどもの絵がとかく抽象的なのは、心と手がストレートに結ばれているからだろう。社会的規範が身につくと、心と手のあいだに幾重ものプログラムがさしはさまれ、その抽象の先にある具体的なモノを描きはじめる。

おそらくはこの抽象にこそ、人の表現の秘密も言葉の秘密も織りこまれている。われわれは内なる抽象にもう少し眼を向けるべきなのである。