表音と表意

およそ表現には二つの類型がある。「表音」と「表意」、アルファベットと漢字だ。アルファベットは文字に意味があるのではなく、文字を順に連ねていく単語に意味が生まれる。その単語の語源もそのモノがむかし「どう呼ばれていたか」の変遷であり、モノのかたちなどの視覚のかかわりではない。

漢字の場合には漢字そのものの構成にルールがある。「へん」「つくり」「かんむり」「あし」「たれ」「にょう」という入れ物が組み合わされてひとつの漢字をなしていく。たとえば「新」という文字。この文字は「立」「木」「斤」の三つの部品から構成されている。「立」は「人の立ち姿」、「木」は文字通り「木」、「斤」は「斧」だ。つまり「人が斧で木を切った切り口が新しい」というわけだ。「へん」や「つくり」はそうした部品の入れ物であり、組み合わせるためのルールである。だから漢字一文字のなかに小さな物語がこめられる。

どうもこの類型にも鈴木秀夫が指摘する「砂漠型」「森林型」の風土の類型が見える。もちろんアルファベットは砂粒の「砂漠型」、漢字はそれこそ様々な生き物がひとところに集積する「森林型」というわけだ。

砂漠には空気遠近法がひろがる。文字が順に整然と並びながら空間を構成していく様はまさに光学的遠近の世界像である。一方、森林型には山水的遠近法がひろまる。中国北宋の画家、郭煕は画論『林泉高致集』で山水に三遠ありとする。

山に三遠あり。山の下より山巓を仰ぎ見たるを高遠と曰ふ。山の前より山の後ろを窺いたるを深遠と曰ふ。近き山より遠き山を望みたるを平遠と曰ふ。高遠の勢は突兀。深遠の意は重畳。平遠の致は冲融にして縹緲。(『林泉高致集』)

一枚の山水のなかに高・深・平の三つの視線を同時にいれてしまう。これはアルファベットの遠近法とは世界の見方がまるで異なる。山水にも漢字と同じ「表意」の造形が隠されている。

いま水墨画家の土屋秋恆さんに注目している。まだ若いアーティストなのだが、この表意の達人である。水墨画というと大方の人は「カラフルな絵の具でなく一色の墨で描いた絵」のようなイメージをつい想起してしまいがちであるが、素材の問題ではない。むしろ表意の遊びに触れてもらいたい。表意のひとつのコツは「見立て」である。たとえば土屋さんの作品に「The Graph of Social Network」(http://www.kusindo.com/2005/work001.jpg)がある。これはとあるソーシャル・ネットワークSNS)の人の連なりの模様を視覚化したものだが、見れば見るほど松に似てくる。ここに山水の遊びがある。

アートばかりではない。技術の世界にも表意がある。たとえば製鉄技術。ヤマタノオロチ伝説のフレームのなかで「たたら」と呼ばれる製鉄の技法そのものがたくみに配置され伝承されていく。これはまさに生きた漢字である。家の間取りから火消しの組織から着物まで。あらゆる場所に漢字の造形がひそんでいる。

いま、アジアの動向が気になりだすころであるが、おそらくはこの表意文化に時代の眼が向いているのだろう。機械国家のアルファベット時代が沈滞していくなかで、漢字が注目される。東アジア圏はそのまま漢字文化圏でもあるのだが、ひとつの気がかりは韓国からしだいに漢字が消えつつあるという事態だ。

 ▼空心堂(土屋秋恆) http://www.kusindo.com/