対想日本

昨日(12.17)、東大で日本の日記文学から当世流行のブログまでの連なりをさぐるLACのシンポジウム『私的領域からのアート発信』があった。日記とブログの連絡は少し短絡的にすぎるが、平安時代から中世にかけての日本の心情がいまどのようにはたらいているかをあらためて考えるきっかけになった。なかでも津本信博さんの「伊勢物語と土左日記はワンセット」「土左日記は古今集仮名序の実践のためのフィクションではないか」という指摘に瞠目する。そう、日本にはいつも対と類の構造が流れている。さらにシンポジウム終了後に松岡心平さんから稚児文化をめぐる紀貫之世阿弥の共通性の指摘。日本ではジェンダーというフィジカルな対でさえするすると入れ替わり立ち替わりするというわけだ。紀貫之は「女もすなる」と女を装ったわけではなく、男でも女でもありそれを自在に使い分けていた。漢字と仮名がひとところにおさまる文化の消息もそのあたりにあるのかも知れない。花の下連歌や笠着連歌の無縁も、単に無縁という場が開かれ芸が花開くだけでなく無縁と縁の融通性に注目すべきだろう。

そろそろNipponesqueを準備する頃合かも知れない。


 ▼LAC http://www.lac.c.u-tokyo.ac.jp/