ロクスソルス

押井守監督の『イノセンス』をみる。ブレードランナーヴィリエ・ド・リラダン、レーモン・ルーセルなど全編に借用イメージが散りばめられ、世界が再構成される。ルーセルの『ロクス・ソルス (平凡社ライブラリー)』は、広大な庭の空間から彫像から、全体の下敷きといっていいほどに借用されていた。ロボットのイメージはそのままリラダンのハダレーから。都市はシド・ミードブレードランナーマトリックスが散りばめられる。


ルーセル(一八七七年〜一九三三年)はブルトンが熱狂したほどの人工言語感覚の持ち主で、旅行に行っても特別仕立ての馬車から一歩も降りず読書にふけるなどしていた。ルーセルの手法は「プロセデ」と呼ばれる。たとえば、まずLes lettres du blanc sur les bandes du vieux billard. 「古びた撞球台のクッションに書かれた白墨の文字」というはじめの文を書く。そしてLes lettres du blanc sur les bandes du vieux pillard. 「年老いた盗賊についての白人の手紙」という最後の文を書く。このふたつの文の物理的な差はbとpの鏡像の差である。だがそこにはまったく異なる意味がうまれている。そしてルーセルはこのふたつの文を石蹴り遊びをするようにつないでいく。


「ロクスソルス(LOCUS SOLUS)」とはラテン語で「人里離れた場所」という意味で、科学者のマルシャル・カントレルが四月はじめの木曜日に友人を招いた別荘。ここに足を踏み入れた途端、現実の世界とは切り離され独自のルールで成立している世界へ足を踏み入れることとなる。水のなかに浮かぶ脳から飛行機械から風船人形まで、透明な言語で綴られていく。すでに「ロクスソルス」という名前のなかにプロセデにはじまる世界が畳み込まれている。『イノセンス』の冒頭で引用されているリラダンの『未来のイブ』は、『ロクスソルス』に比べると読み物のような体裁である。『ロクスソルス』はそれほどまでに鉱物の結晶を想起させる。やがてこの心情はマンディアルグに受け継がれていく。


ここまで語ると、「ロクスソルス」の世界定めはいかにも『イノセンス』の世界にぴったりなのだが、どうも物足りない。食事を出されてもまるで食べた気がしない。ロクスソルスにすっかり逆襲されている風である。『イノセンス』にするよりも、徹底的に『ロクスソルス』を映像化したほうがよかったかも知れない。

イノセンスからおよそビジュアルなイメージを取り払って物語をひきだすと、ほとんど何も残らない。どうもデジタル技術を利用した作品作りの手法のための習作といった按配だ。これは「システム構築」に似た製作手法の未熟さから来るのかも知れない。たとえば、近未来の都市のイメージを人に伝えるのに「ブレードランナーのような都市」と言ってしまうだけで全編の都市がブレードランナーになってしまう。もっと狩野派の方法を見るとよいだろう。


ルーセルは言葉の物理的な形や音を連鎖させながら物理的な連鎖と意味的連鎖を二重につないでいこうとした。これは表音文字に別の意味を付着させるための手法だろう。これがルーセルの透明な文体の秘密である。

一方日本は、花鳥風月や枕詞や連歌など、背後に眠る意味や世界を引き出したりつないだりするシステムを持っている。そろそろそんな手法をひそかに利用するアニメーションが登場してもよいころだ。まだアニメーションは蝙蝠傘もミシンも描いていない。意味を発するピクチャレスクにむかいたい。映像はまだまだ透明になれる。