方法の国

 日本はもとより「按配」から「布置」「図案」「図按」といった世界配置の溢るる国である。


 尾形光琳による作も、芸術的に対象を写実しているわけではない。屏風、硯箱などの「フレーム」に絶妙に事物を配置し、その按配から価値を生み出す。「合わせ」も「尽くし」も、配置される事物の関係を発見するための作法である。


 19世紀半ばに日本は開国する。それから日本は「西洋化」への急激な階段を上っていく。ペリーの浦賀来航より20年後の1873年には大隈重信を総裁とし、ウィーン万国博覧会に日本の工芸品を多く出品している。このときのテーマが「デザイン」であった。そこで急遽「デザイン」に対応してつくられた言葉が「図案」であった。納富介次郎の発案になるとされている。


 ウィーン万国博覧会に出品し、外国からの工芸品の輸出要請の引き合いにこたえるために万博に随行していた商人、松尾儀助と若山兼三郎のふたりによって1874年(明治7年)7月3日、京橋区木挽町六丁目に起立工商会社が設立される。社長は松尾、副社長が若山であった。この会社は政府による戦略会社で、いまでいう第三セクターの会社であった。起立工商会社は得られた売上から伝習生の留学費用を充てるなど人材の育成にも大きな役割を果たしている。


 そして1876年、フィラデルフィア万国博覧会が開催される。このとき納富の発案により図案を出品人に下付けするというデザイン指導が行われる。内務省勧商局に製品画図掛が設置(明治11年大蔵省商務局、14年農商務省博物局、18年廃止)され画工を雇用し専門に図案の製作を継続した。末期には平山英三も従事している。このときの指導は『温知図録』として残っている。

 ここに見られる「デザインをめぐる自己組織化」は、狩野派琳派やを彷彿とさせるシステマチックな動向である。工房にはいつもディレクタとアーティストとプロデューサが出入りし、そこで作品のかたちをつくっていった。ここにも按配がひそんでいる。


 はじめはオリエンタリズムにも通じる新鮮さが受けたのか、日本の工芸品が一躍世界の注目の的になる。ところがウィーン万国博覧会の20年後のシカゴ博、1900年のパリ万国博覧会では様相が一変する。日本の工芸品が単なる古物模写趣味であるという批判を受ける。まさに世界は機械・近代技術による新しい世界に突入しつつあり、なによりも「新しさ」が欠けているという指摘だ。


 だが、現在近代が綻びていくなかで「デザイン」も例外ではない。機械・機能・都市にあまりに密着した「デザイン感覚」が人との接点を狂わせていった。どこか居心地の悪い都市空間も近代デザインの産物である。そしてアジアなどおよそ近代的でない地域にさかんに眼がむけられるようになる。


 絶妙の按配ともいえる日本のデザインには、「間」の感覚がある。西洋的視点から見ると「間」はまだ書きこまれていない余白、欠落としてとらえられる。だが、日本的感性では、まさにそこに「間」がうめこまれている。「間」とはそこにあるモノ・コトとは異質の何物かが充填されている状態である。空白ではない。


 近代デザインがグラフィックからインダストリアル・デザイン、インテリア・デザインから都市デザインに向かい、インターネットの登場によって眼に見えない「情報」が対象になってくるといよいよ「間」が本領発揮するようになる。「人間」にも「空間」にも「間」がさしはさまれている。


 モノ・コトの配置から組織の構築にいたる「按配感覚」をこれからの方法として実践するのが肝要だ。