途中学のすすめ

以前、さかんに五感をめぐる空間形成が気になっていたことがある。アフォーダンスはあまりに外化にすぎ、クオリアはあまりに内化にすぎると感じていた。そこで人の感覚のかたちが現実に持ちこまれた場を五感空間と呼んでいた。人は生きている空間のなかでは物理的な人のかたちはしていない。


そんな感覚に連なる空間がふと日常にあらわれることがある。その空間はまだ物理的な空間にも夢にもなりきれない、途中の空間である。


たまには亜空間の散歩はいかが。


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自分ですら途中がよいではありませんか。

時間感覚

ひとつ宿題がある。

3DCGが駆使された映画やゲームの空間に時間感覚がないのはなぜか。なぜはじめも終わりもない世界とみてしまうのか。一方で週刊誌に連載されている漫画やサザエさんのアニメーションに時間を感じてしまうことがある。山水画のように静止しているはずの絵に時間を感じてしまうこともある。


時間という感覚は何を連れてきているのだろうか。時間は誰が連れてきているのだろうか。

ロクスソルス

押井守監督の『イノセンス』をみる。ブレードランナーヴィリエ・ド・リラダン、レーモン・ルーセルなど全編に借用イメージが散りばめられ、世界が再構成される。ルーセルの『ロクス・ソルス (平凡社ライブラリー)』は、広大な庭の空間から彫像から、全体の下敷きといっていいほどに借用されていた。ロボットのイメージはそのままリラダンのハダレーから。都市はシド・ミードブレードランナーマトリックスが散りばめられる。


ルーセル(一八七七年〜一九三三年)はブルトンが熱狂したほどの人工言語感覚の持ち主で、旅行に行っても特別仕立ての馬車から一歩も降りず読書にふけるなどしていた。ルーセルの手法は「プロセデ」と呼ばれる。たとえば、まずLes lettres du blanc sur les bandes du vieux billard. 「古びた撞球台のクッションに書かれた白墨の文字」というはじめの文を書く。そしてLes lettres du blanc sur les bandes du vieux pillard. 「年老いた盗賊についての白人の手紙」という最後の文を書く。このふたつの文の物理的な差はbとpの鏡像の差である。だがそこにはまったく異なる意味がうまれている。そしてルーセルはこのふたつの文を石蹴り遊びをするようにつないでいく。


「ロクスソルス(LOCUS SOLUS)」とはラテン語で「人里離れた場所」という意味で、科学者のマルシャル・カントレルが四月はじめの木曜日に友人を招いた別荘。ここに足を踏み入れた途端、現実の世界とは切り離され独自のルールで成立している世界へ足を踏み入れることとなる。水のなかに浮かぶ脳から飛行機械から風船人形まで、透明な言語で綴られていく。すでに「ロクスソルス」という名前のなかにプロセデにはじまる世界が畳み込まれている。『イノセンス』の冒頭で引用されているリラダンの『未来のイブ』は、『ロクスソルス』に比べると読み物のような体裁である。『ロクスソルス』はそれほどまでに鉱物の結晶を想起させる。やがてこの心情はマンディアルグに受け継がれていく。


ここまで語ると、「ロクスソルス」の世界定めはいかにも『イノセンス』の世界にぴったりなのだが、どうも物足りない。食事を出されてもまるで食べた気がしない。ロクスソルスにすっかり逆襲されている風である。『イノセンス』にするよりも、徹底的に『ロクスソルス』を映像化したほうがよかったかも知れない。

イノセンスからおよそビジュアルなイメージを取り払って物語をひきだすと、ほとんど何も残らない。どうもデジタル技術を利用した作品作りの手法のための習作といった按配だ。これは「システム構築」に似た製作手法の未熟さから来るのかも知れない。たとえば、近未来の都市のイメージを人に伝えるのに「ブレードランナーのような都市」と言ってしまうだけで全編の都市がブレードランナーになってしまう。もっと狩野派の方法を見るとよいだろう。


ルーセルは言葉の物理的な形や音を連鎖させながら物理的な連鎖と意味的連鎖を二重につないでいこうとした。これは表音文字に別の意味を付着させるための手法だろう。これがルーセルの透明な文体の秘密である。

一方日本は、花鳥風月や枕詞や連歌など、背後に眠る意味や世界を引き出したりつないだりするシステムを持っている。そろそろそんな手法をひそかに利用するアニメーションが登場してもよいころだ。まだアニメーションは蝙蝠傘もミシンも描いていない。意味を発するピクチャレスクにむかいたい。映像はまだまだ透明になれる。

月島遊便局002(2005.12.22月齢20.81)

月島に夕日


午後、月島の工作舎に中上さんを訪ねる。前回の月島ミーティングは阿吽のはじめの顔合わせといったところで、あまり「構想」や「想い」は交換していない。だがそれでも十分すぎるほど月が動きだしていた。来月下旬、またメンバーでミーティングを持つが、それまでにある程度の目当てと中上さんの想いに聞き耳をたてておきたくて本日の訪問となった。

中上さんはどこか人を引き寄せ、結ぶところがある。接着剤でもメディアでも目利きでもある方。まさに遊侠人。あっという間におよそ三時間ほどの時間がぐるぐると回り、博物館に埋もれた幻の収蔵品の探検、小学校図書館の本棚から日本観光読本、月島物語、超小型衛星、100$PC、産学連携機構、デジタルアーカイブスヌーピースクイークから悉皆屋まで語り尽くす。

中上さんの月島にはじまる想いの先に同じ月が光っているのを実感する。いきなり構想を書きこんだり、ゼロから話を聞くよりも、ある想いの目当てを披露するのがよいというのも同じ。このあたりに悉皆・編集感覚がある。

桜氏との約束

朝の桜氏は病院の屋上からだったが、少し息が苦しそうだった。夜が怖いと言っていた。寝るとそのまま連れて行かれてしまうのではないか、という気持ちに襲われる。いったい年を越せるのだろうか。人と世界の淵の不安のなかで桜氏は闘っている。さきほどの桜氏は少し声が回復し、元気な声。昔の自分の話をするときが一番元気そう。こどもの時分は料亭と酒蔵に囲まれて暮らしていたそう。桜氏の悉皆の本領もそんなところにあるのかも知れない。そんな桜氏と、元気になったらふたりで久留里線にのっておいしい食べ物と少しのお酒に舌鼓を打ちにいく約束をする。ふたりで悉皆屋をはじめたい。縁のなかには絆もある。